2016年6月11日土曜日

紫陽花と遊女と

   日本では文献によると1528年(大永8年)に時の室町幕府の下で傾城局が設けられた。傾城とは遊女のことで、ここに管制の公娼制度が誕生したと言えるだろう。時代がくだり豊臣時代の1589年(天正17年)に秀吉の家来、原三郎左衛門という者が許可を得て京都万里小路柳馬場(二条柳町)に遊女町を開設、いわゆる〝遊郭〟の祖がここに記録される。

 江戸時代はご存知の「吉原遊郭」が公許の娼妓制度として知られるが、維新の明治政府において公娼廃止を打ち出すも実現には至らず、昭和の敗戦後にJHQ(米国進駐軍)によって禁止令が通告された。が、そのあと1958年(昭和33年)4月から、前年国会で決まった「売春防止法」が実施され、遊郭、赤線など公認の売春機関が完全に消滅した。

  僕はかつて花柳界で発行していた機関紙に永い間、関わっていたので、遊郭などは年代的に体験する機会はなかったけれど、その方面の史実に興味があって随分調べた。現代では人身売買などずっと昔の話のようだが、日本でそうした事由が無くなってからまだ80年にも満たない。例えば医学関係でもその教育や研究のために必要な人体の解剖も日本の場合は江戸時代の後期であり、西欧に比べて300年も遅れているようだ。

  まあ、人体解剖などは人種的な精神風土に関わる問題なので一概に比較は出来ないのだけれど、日本では本人の意思で死後の献体が制度化さてたのも近年である。西欧医学の影響で江戸後期に腑分けと称して解剖がおこなわれたが、その屍体は犯罪者の刑死がほとんどである。おのれの意思に基ずく死後の献体は明治初年で「日本に於ける志願解剖の第一例が、吉原に遊女だあった」という。
  
  その遊女のことは、一昨年(平成26年4月)に亡くなられた医師で小説家の渡辺淳一先生の著作『白き旅立ち』に詳しく書かれています。

  さて、いまは梅雨の真っ最中でなんとも鬱陶しい毎日ですが、救いはこの時期に潤う紫陽花でしょうか。季節の変わり目はどうも体調も戸惑うみたいで疲労感と眠気になやまされますが、これも歳のせいでしょうかね。其処かしこに咲く紫陽花に命の尊さを感じると言ったら、ちょいと大袈裟ですか・・・・・。

 


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