2016年4月1日金曜日

人はどこまで成長できるか?

   親父は浅草生まれで現存する金竜(尋常高等)小学校卒、家具職人になり、結婚して江東区(当時は城東区)砂町に所帯と仕事場兼用の住居を構え、私はそこで生まれた。4歳上の姉に次ぐ長男だったが、東京大空襲の前に兵役にとられた親父の指示で母の故郷である群馬県利根郡片品村へ、2歳下の妹と姉、母の一家4人は疎開した。

  終戦の1945年、正確には8月15日を迎える前の4月に私は疎開先で小学校に入学した。親父は無事に戻ったが、母親のほうが疎開先で病死して東京へ帰るのが遅れた。戦後の混乱は疎開先ではわからなかったが、特に下町は焼け野原で、とても直ぐ戻れるような状態ではなかった。親父は妻の親類と葬儀を済ませたあと、ひとり上京して帰省準備に奔走した。

  そして、荒川区尾久に新居を建て私ら子供を帰省させるのに4年もの歳月を費やしてしましった。私は小学4年生の3学期に編入して東京での子ども時代を再開した。5年間ほどの疎開生活は貴重な体験だったが、先祖の墓が浅草にあり高校は上野で、現在は多摩西部の郊外に住んでいるものの東京の繁華街には精通していると自負していたが・・・・・・。

 先日、初めて東京ビックサイトなどがある臨海副都心に出かけてきた。成田空港へ向かう車窓からは何度も見ているのだが、直接足を踏み入れたのは今回が初めて、こういうところは東京デズニーランドなどと同様に地方に住んでいる人や外国人のほうが訪問チャンスが多いのではないだろうか。

  たまたまロケセットがビックサイトの近くだったので電車(仕事ではほとんど電車)で行ったが、当日は9時過ぎから撮影があり、私の出番は2シーンで午前中に撮り終わったので、帰り道は少し歩きたくなって、ゆりかもめの二駅ばかりを歩いてお台場へ行った。フジテレビ局の向かい側で、レインボーブリッチの眺望(写真)は素晴らしかったが手前の「自由の女神」には可笑しくて笑ってしまった。俺もおのぼりさんだなぁ~という自嘲もあって、見物は早々に切り上げお台場からゆりかもめで新橋へ出て帰途に就いた。

 焼け野原からこんにちまでの東京の変遷を体感している人間としては、いまの利便性が夢のようであり、未来への限りない展望を創造するだけでワクワクする。まぁ、年齢的には見届ける時間は少ない訳だが、その進路に戦争や争い事を避けて、自然災害には迅速な復興がかなうように国力をつけておきたいものだ。


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