2015年1月17日土曜日

命ある限り!

 阪神・淡路大震災から20年が経った。ちょうど20年前の1月17日午前5時46分に起きたその大地震、東京に住んでいる私はテレビの臨時ニュースで知ったが、倒壊した家屋や火災の映像で甚大な災害であることを理解するも、その被害の全容を飲み込むまでには数日かかったことを記憶している。

 20年という歳月はその年誕生した赤ちゃんが成人式を迎え、被災地の復興も成ったと言えそうだが、当時の世帯主や働き盛りの40代、50代は老齢の域に入る時間経過であり、震災の犠牲者6,434人という惨事に加え、身内を失って老齢を迎えた人たちの孤独死が今も続き、被災者の悲劇癒えることがない。


 神戸も淡路も私自身は縁者がなく、訪れたこともない所なので遠くから見守る以外にないのだが、日本人にとってこうした自然災害は他人事でなく、いつわが身がその渦中に巻き込まれてもおかしくないし、不安を抱えて万一の場合を想定しても、なかなか答えなど出て来るものではない。

 同じ状況下でも生死は紙一重で分かれたり、その日はたまたま其処に居なかったりと、運命と言ってよいのかどうかはわからないが、人知の及ばないことはあるものだし、物理的な支援は他人に委ねられても降りかかった災難を振り払う精神面の「心」、つまり個人の想いを無視できない。

 震災後の独居生活による孤独死の事例を考えると、高齢化社会に至った現代日本の普遍的な問題にも思え、生きるということ自体が個人の行いでしか為す術がないのであって、支援はあくまで補助手段、高齢になれば死が近くなるわけだが、人の命を尊ぶ思想がなければ社会は成り立たない。

 20年前の1995年は1月の大震災のあと、3月には東京のメトロでオウムのサリン事件が発生、そして今から4年前の3月に起きた東日本大震災は記憶に新しいが、私たちは本当に生命の危険を抱えた状態なのだから、いまこの時を大事に生きたいと思い通りにはいかいない人生を考えている。

 私事ながらこの19日からイタリア(ミラノ、ベネチア、ローマなど)へ行って参ります。

 

 


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