2008年8月26日火曜日

花柳界と私

 職業が生計の糧(収入)を得るためのものであるとするなら、俳優を「職業」と言うのは当事者として照れ臭いものがあります。これは小説家や画家、音楽家などにも共通すると思いますが、就業すれば必ず食えるという保障は皆無だからです。

 特に舞台を中心に活動していると、1週間単位の公演では俳優の収益など考えられない。大道具、小道具、照明などの仕込み費や小屋代を賄うだけで精一杯、俳優は稽古場や劇場への交通費も自腹ということが多いのです。

 だから俳優をやるには、資産家か副業を持たないとなかなか難しい。若い頃ならアルバイトをやりながら芝居というパターンである。稀にスターダムにのって経済的な苦労をしない例もありますが、若い頃のアルバイトはいまも変わらないようです。

 私も駆け出しの頃、東京・新宿の「風月堂」という喫茶店でウエーターのアルバイトをやっていました。その店はもうとっくに無くなっていますが、当時は芸術家の溜まり場みたいなところで、いろいろな劇団から俳優のタマゴたちがバイトに来ていました。

 年に2~3回の本公演の期間になると3週間から1ヶ月はバイトを休む。そういう融通が利くバイト先を選んだとはいえ、いまから思うと同店のオーナーはとても面白い方でした。だから、5年近くもそこでアルバイトをやれたんです。

 この間、劇団の主宰者である玉川伊佐男さん(故人)らの関係で現在の所属事務所の「俳協」に所属し、テレビドラマの端役の仕事もボチボチやり始めました。ただ、舞台をやりたくて、そのためには生計の道を他に持たなければと真剣に考えていました。

 そんな折、実姉が事務員として勤めていた芸者さんの団体に拾われました。その団体は明治33年に創設された「全国芸妓芸妓屋組合同盟会」という花柳界の全国組織です。そこで機関紙を発行しておりまして、編集部員に加えてもらえたのです。拘束なし、勤務時間は自由という願ってもない副業になりました。

 花柳界の斜陽化が進んで1993(平成5)年に同組織が解体。これに伴い、当時は既に発行の全権を任されていたその業界紙も廃刊いたしました。その後も花街関係者との交流は続き、支援も受けましたが、花柳界とは30年に及ぶ関わりを持ちました。

 現在でも京都・祇園甲部の「都をどり」、東京・新橋の「東をどり」が催されておりますが、その健在ぶりに記者として関わった特別な思い入れもあります。かつては全国各地で花街踊りが盛んでした。そして、私自身が俳優の道を歩き続けられた原動力がそこにあったと自負しているのです。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

同世代ですので、時々拝見させていただいています。
信州松本です。
できましたら交流させていただきたいのですが。
お願いします。

Memorandum さんのコメント...

宮さん、コメント有難うございました。
 
 気がつかずご返事がおくれました。

 どうぞよろしくお願い申し上げます。