もう50数年も前の話ですが、漠然とした興味から俳優を志し、たまたま目にした新聞の児童劇団青年部の募集広告に応募したのです。そして、応募者が少なかったのか運がよかったのか採用通知をいただき、半年後に俳優座劇場で本公演を控えていた演目に小さな役をあたえられ、ど素人ながらセリフもある医者の役で舞台を踏みました。演出が文学座の岩村さんという演出家で、随分てこずったと思うのだが、私には怒られた記憶はなく、優しい先生という印象しか残っていない。劇団はこの舞台で読売新聞社主催の児童演劇賞を受賞しました。
この初舞台で、おのれの声や身体を思うように操れない未熟さを思い知らされましたが、私には俳優は無理だというより、本格的に訓練したいという気持ちのほうが募り、翌年には新劇の中小劇団である泉座の研究生に、これも応募で移りました。同劇団は山本礼三郎、望月優子、藤原鎌足、三島雅夫(後に俳優座)さんら当時の映画界でも活躍された錚々たるメンバーで結成された劇団でしたが、私が入所したときは後継の玉川伊佐男さんが主宰しておりました。
このころの中小劇団のほとんどがそうであったように、泉座も年2~3回の本公演は赤字で、劇団員の多くはテレビや映画に出演したり、アルバイトで生計を立てていました。私も喫茶店でウエィターのバイトをやったり、入団して1年が過ぎた頃から現在の芸能プロダクション・俳協に所属してテレビや映画の端役をもらえるようになりました。しかし、若い頃は我侭なもので本業(俳優)の仕事では妥協したくないなんて思いから、嫌な仕事は断っていました。けれども生計がたたなければ俳優業自体が続きませんから確固とした収入源を持とうと、実姉の縁を頼って花柳界の業界紙の編集を請け負いました。時間がフリーで副業にはぴったりでしたから、この仕事のお陰で俳優業を継続できたといえます。芸者衆との関わりも深く、芸能という点では俳優と無縁でもなかったと思います。平成6年で廃刊させていただきましたが。
それもこれも舞台に専念したいためでしたが、弱小劇団ですと体力勝負みたいなところがあって、家庭を持ったり年齢が高くなると演劇集団の活動が難しくなりました。で、残された道はテレビか映画の世界しかなかったというのが現実でした。キャリアは長いのですが、そのテレビ・映画では脇役・端役で自慢できるような実績もありませんので、偉そうなことは言えません。ただ、曲がりなりにも沢山の映像作品に関わってきたことには感謝しておりますし、これからもお呼びがかかることを待ち続けたい。
心配なのは所属事務所が声優集団に見られていること、確かにドラマ作品の受注がかなり減っているのです。これも時の流れなんでしょうかね。テレビにしても映画にしてもかつての隆盛期の活気が失われています。仲間内のやりくりみたいで、作品のめざすものがどうも見え難くなりました。これも歳のせいなのかもしれませんね?
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